江戸時代初期、沢庵宗彭(たくあん そうほう)が、徳川将軍家の兵法指南役であった新陰流の剣豪・柳生但馬守宗矩(やぎゅう たじまのかみ むねのり)に与えたと伝えられる書簡が『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』です。
剣術の勝負や日々の鍛錬を題材にしながら、禅の心理論や心のあり方を説いたもので、後世の武道論・身体論・日本思想に影響を与え続けています。
※この現代語訳は個人による解釈をまとめたメモ書きです。専門家や学術的な見解とは異なる解釈が含まれる可能性があること、あらかじめご了承ください。
『不動智神妙録』とは?沢庵宗彭と柳生宗矩の交わりが生んだ剣禅一如の名著
沢庵宗彭(1573〜1646)は、紫衣事件で幕府の方針に異を唱えて流罪となったことで知られる臨済宗の禅僧であり、三代将軍・徳川家光や柳生宗矩らと深く交流しました。
一方の柳生宗矩(1571〜1646)は柳生の庄出身で、父・石舟斎が継承した新陰流を宗矩が受け継ぎ、徳川秀忠・家光の兵法指南役として柳生新陰流を天下の兵法へと押し上げた人物です。宗矩自身も禅に深く傾倒し、自著『兵法家伝書』を著しています。
『不動智神妙録』は、沢庵が宗矩に与えたと伝えられる書であり、仏教における心の働きを剣術の具体的な場面になぞらえながら説いたものです。そこで一貫して語られるのは、「どこにも心をとどめない(執着しない・居着かない)」ことの大切さです。
現代語訳
「諸仏不動智」という教えがございます。「不動」とは「動かない」という意味であり、「智」とは智慧の智でございます。
しかし動かないと申しましても、石や木のように何の感情も生気もないような状態ではありません。 前へも、後ろへも、左へも、右へも、あらゆる方向に心は動きたいように自在に動きながらも、少しもとどまる(執着する)ことのない心、これを「不動智」と呼ぶのでございます。
不動明王と申せば、右手に剣を握り、左手に縄を持ち、歯をむき出し、目を怒らせて、仏法を妨げる悪魔をねじ伏せようと仁王立ちしておられる姿でございます。しかし、あのようなお姿の仏が世界のどこかにいらっしゃるわけではございません。 外見の形は「仏法を守る姿」として造り、その本質はこの「不動智」そのものを本体として、生きとし生ける人々に目に見える形でお示しになられたものなのでございます。
世の中の凡夫はその恐ろしい姿を見て恐れを抱き、「仏法に仇をなしてはならない」と思い、悟りに近い人は不動明王が不動智を表しているのだと悟り、すべての迷いを晴らします。すなわち不動智を明らかにし、「この身こそ不動明王そのものである」と言える境地に至った人は、いかなる悪魔も勝つことはできないのだと知らしめる、そのための不動明王なのでございます。
ですから不動明王と申すのは、人の心が一切動揺しない拠り所を意味しております。また、身が動転しないことでございます。「動転しない」とは、物事の一つひとつに心が留まり固執しないことでございます。 物事をひと目見ても、その物事に心を留めないこと、これを「不動」と申します。なぜなら、物事に心が留まってしまえば、あれこれと思い迷う分別が胸の中に生じるため、胸の内で心が様々に迷い動いてしまうからです。心が一箇所に留まってしまえば、心は動けなくなってしまいます。
たとえば、十人の敵が一人一太刀ずつ自分へ切りかかってきたといたしましょう。最初の一太刀を受け流したあと、その一太刀に心を留めず、過去の太刀を即座に捨て去って次の一太刀に応じるようにすれば、十人全員に対して手落ちなく対応し続けることができます。 十人に対して十度、心は機敏に働きますが、ただの一人に対しても心を留めなければ、順繰りに相手をして働きが鈍るようなことはございません。 もし仮に、最初の一人の前で心が留まってしまえば、その一人の打ち込みは受け流すことができても、二人目が打ち込んできたときには、こちらの働きが抜けてしまい、打たれてしまうのでございます。
千手観音には手が千本ございますが、もし弓を持つただ一つの手に心が留まってしまえば、残りの九百九十九本の手はことごとく役に立たなくなってしまいます。一箇所に心を留めないからこそ、千本の手がすべて役に立つのです。 観音様と申しましても、一つの身体に千本もの手が生えていて何になりましょうか。「不動智の境地が開ければ、たとえ一身に千本の手があっても、そのすべてを自在に使いこなすことができるのだ」という真理を人々に教え示すために、あのようなお姿を象っているのでございます。
たとえば、一本の木に向かい合って、その木の中のたった一枚の赤い葉を見つめていれば、残りの葉は目に入らなくなります。しかし、葉一枚だけに気を取られず、一本の木に何のこだわりもなく無心に向かい合えば、数多くの葉が余すところなく目に入ってまいります。葉の一枚に心を奪われれば残りの葉は見えなくなり、たった一つに心を留めなければ、百や千もの葉がすべて見えてきます。 この道理を深く体得した人は、その人自身がそのまま「千手千眼の観音」でございます。
それなのに凡夫は「身体一つに千の手と千の眼が本当についておられる、ありがたい」と信じ込みます。また、生半可な知識を持つ人は「一つの体に千の眼などあるはずがない、作り話の嘘っぱちだ」とあざけり否定します。物事をもう少し深く理解するならば、凡夫のように盲信するでもなく、知者ぶって否定するでもなく、その奥にある深い「道理」の上において尊び信じるようになります。仏法とは、一つの具体的な事物を通して、その奥底の真理を表現するものでございます。 あらゆる諸芸の道も皆これと同じであり、神道などは特にその傾向が顕著であるとお見受けいたします。 目に見える形のままに信じ込むのも凡夫ですし、かといって軽薄に打ち壊して否定するのはさらに良くありません。その形の中にこそ真の道理が宿っているのです。この道、あの道と道筋は様々であっても、至るところみな一つに落ち着くのでございます。
さて、初心の段階から修練を積んで不動智の境地に達したならば、今度は逆に、心がどこにも留まらなかった最初の「初心の境地」へと立ち還るべき理由がございます。
貴殿(柳生宗矩公)の兵法(新陰流)を例にとって申し上げましょう。
初心者のうちは、太刀の構え方も何も知らないため、我が身に心が留まることすらございません。相手が打ち込んできても、ただ刀を合わせるだけで、心に何の計らいもございません。 ところが、そこから様々な技や型を習い、「太刀の構え方」「心の置き所」など色々なことを教えられますと、その教えられた様々なところに心が留まってしまいます。相手を打とうとすれば、あれこれと考えてしまい、かえって非常に不自由になってしまうのです。 しかし、日を重ね年月を重ねてひたすら稽古を積み重ねてまいりますと、やがては身の構えも太刀の扱いもすべて心の中から消え失せ、ただ最初の「何も知らず、何も習っていなかった時」と同じような自然な心境へと至るのでございます。
これは「初め」と「終わり」が円環を描いて同じようになる心持ちです。一から十までぐるりと数え回せば、「一」と「十」は隣同士になります。雅楽の音階(調子)などでも、一番最初の低い「壱越(いちこつ)」から始まって、最も高い調子である「上無(かみむ)」まで行き着けば、一番下の音と一番上の音とは隣り合わせになるようなものでございます。
一、壱越(いちこつ) 二、断金(たんぎん) 三、平調(ひょうじょう) 四、勝絶(しょうぜつ) 五、下無(しもむ) 六、雙調(そうじょう) 七、鳧鐘(ふしょう) 八、つくせき 九、らん 十、盤渉(ばんしき) 十一、神仙 十二、上無(かみむ)。 極めて高い音と、極めて低い音とは、互いによく似たものとなります。仏法の修行も、極めて高まりますと、仏の教えも仏法も何一つ知らない無垢な人のように見え、飾り気も何もなくなるものでございます。 それゆえ、最初の段階における「無明と煩悩」と、後になって得た「不動智」とが一つに溶け合い、智慧を働かせたりする分別は綺麗さっぱり消え去り、「無心無念」の境地へと落ち着くのでございます。この極致に至りますと、手も足も身体そのものが技を覚えており、心など一切入り込まなくなります。
鎌倉の仏国国師の歌にも「心があって田を守っているわけではないけれど、山の田んぼの中で、案山子(かかし)は無駄なものではなかったのだなあ」 と詠まれております。
達人の所作は、みなこの歌の通りでございます。山の田んぼに立つ案山子とは、人形を作って弓矢を持たせて立てておくものです。鳥や獣はこれを見て逃げ出します。この人形には露ほども心はありませんが、鹿が怖がって逃げてくれれば田を守る用は十分に足りるため、決して無駄な存在ではないのです。 あらゆる諸芸の道において極みに達した人の所作は、まさにこれと同じです。手足や身体の働きばかりが自然に動いて、心は少しも一箇所に留まらず、心がどこにあるのかすら分からないまま、無念無心の境地において、あの案山子のような働きをするのでございます。 無知な凡夫は初めから智慧がないため、外に智慧が現れ出ることはありません。また最高の智慧も、もはや心の奥底に沈んで隠れてしまうため、外に現れることはございません。ところが中途半端に物知りになった者は、その智慧が表に現れてしまい、実に滑稽なものです。今の時代の僧侶たちの振る舞いなども、ご覧になればさぞ滑稽にお思いになることでしょう。まことにお恥ずかしい限りでございます。
修行には「理の修行」と「事の修行」というものがございます。 「理の修行」とはここまで申し述べてまいりました通り、行き着くところ何物にも囚われず、ただ執着する心をいかに捨て去るかという心の修養でございます。これまでに順を追って書き記した通りでございます。 しかしながら、「事の修行」を積まなければ、頭の中だけに道理があって、いざというときに手足も身体も思い通りに動きません。「事の修行」と申しますのは、貴殿の兵法で言えば、身構えの五箇や一字の太刀など、様々な技の事でございます。 理を知っていても、実際の事(技)が自由自在でなければ役に立ちません。また、腰に差した太刀の扱いがどれほど巧みであっても、理に暗く迷いがあれば、真の達人とはなり得ません。「事」と「理」の二つは、決して切り離せない車の両輪のようなものであるべきです。
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